2013年6月26日水曜日

「音戸の瀬戸」手ぬぐいのエピソードを、ご紹介します

以下、「呉てぬ」と大阪在住のY.H.さんとのメールのやりとりでしたが、
思わぬ展開に…


Y.H. :
私の親父は広島の音戸出身です。
その親父も、当年85歳で女房も亡くし大阪の施設にお世話になっております。

私が小さい頃、音戸大橋を歩いて渡ったことを覚えています。

甥っ子がお祖父ちゃんの里に行ってくると初めて音戸に渡った写真です。
帰ってきて音戸大橋がもう1本できるで!と親父と私、初めて知りました。


呉てぬ:
なるほど、3世代に渡って、愛されてる
音戸大橋なのですね!


平清盛のTVをきっかけに、歴史が開く

 Y.H. :
当時、親父の住まいは、音戸の渡子(地区)でした。
私は、大阪で生まれ、幼少の頃は毎年、夏に連れて帰ってもらい・・・
今、思えば海も汚く夕方に見るドデカイ塩の山!
ホームシックにかかりました(笑)

自分が車の免許を取り、親父を連れて帰るようになった事。
「おばぁちゃん帰ってきたで~」と言い裏山に登り
「おじいちゃん帰ってきたで~」とお墓に手を合わせ、
不気味な塩山も懐かしく思いました。

もうそれから30年経ち誰もいない家を処分しました。

親父は里のことをあまり話すのが少なかったのですが、
平清盛のTVをきっかけに親父の話を聞いて調べていくと、
元々丹波から広島に入ったみたいで、そのまま音戸に残ったようです。
平井の最後の船「丹波丸」の写真が残っています。
間もなく船は、大戦でお国に献上で海運業は終わりです。
今は、お爺ちゃんとお祖母ちゃんがやっていた
小さなお店「H.商店」と屋号をいただき
大阪で小さなちいさな運送業やってます。

呉てぬ:
戦後復興の高度経済成長期
汚染も酷かったでしょうね。
昭和のイメージは、確かに綺麗では無かったです。
だけど、暖かく、活気が有りました 笑
塩山はその頃から、有ったんですね。
友人から工業用に塩を使うのだと、最近知りました。
「H.商店」さんのお名前の由来は、音戸時代からだったんですね!
それから、30年、、、
確かに、胸が熱くなる感覚は僕にも伝わってきました。

音戸に育った方々は、幼少から音戸大橋や塩山は
かけがえのない、思い出の宝物なのですね。
これからは、少し違った角度で音戸の光景が見えると思います。



Y.H. :
今はもう無い広島の家から持って帰ってきた写真です。
昭和10年木之江町(大崎上島)で最後の船の進水で
前のほうで突っ立てるのがおじいちゃん、腰になにかぶら下げてる和服がひぃじいちゃんらしいです。

呉てぬ:
これが、「丹波丸」
大きく、立派な船ですね!
貴重な、写真をありがとう、ございます!

Y.H. :
手ぬぐい、心待ちしています。










Y.H. :
ありがとうございました。
親父大喜びです!
親父と私と甥っ子で手ぬぐいワケワケします(笑)

呉てぬ:
お父様!嬉しそう!!
数度に渡り、心に滲みるお話と、写真ありがとうございました!

何か、伝わるモノ作りが出来て、嬉しいです

ほんとに、「呉てぬ」作って良かったです!

ありがとう、ございました。




最後に、

今回橋渡しをして頂いた、管さん、感謝しております。

長文ご愛読、ありがとう、ございました。